(鍵で玄関をひらく音)
(足音)
…ああ、おかえり。呼鈴押しても応答なかったから、勝手に合鍵で入っちゃったよ。
…え? いや、俺もさっきここに来たとこ。
ねぇ、今から夕飯作るんだけど、なんか食べたいものある?
…なんでもいい、っていうのが、一番困るんだけどねぇ。
…主婦みたいなこと言うなって? 誰のせいよ、誰の。
夕飯の支度してるあいだにお風呂に入ってくれてもいいけど――。
あ、ちょっと待って。今の台詞、言い直させて。
(足音)
…おかえり。風呂にするか? メシにするか? それとも…俺にするか…?
…………。
そんな馬鹿を見るような目で見ないでよ。ちょっとぞくぞくしちゃうじゃん。
で、どうすんの? ご飯にする? お風呂にする?
…ビール?
あー、そう来たかー。
…じゃあ、俺は君がひと休みしてるあいだに、夕飯の支度でもしましょうかねぇ。
…ちょっと待って。首のとこ、どうしたの?
…あー、虫に刺されちゃってるね。よかった。一瞬キスマークかと思っちゃった。
…馬鹿ってなによ、馬鹿って。俺、今ほんとにちょっとひやっとしたんだからね。
…いや、君を信じてないわけじゃないよ。ただ、そういうとこにそんな痕ついてたらさ。…ねぇ?
どうする? 薬塗る? ってか、薬なんてある?
…そこの引き出し? どこ? ここ?
(物音)
…ああ、あった。これね。
…ねぇ、これ、いつの薬? 俺の目が確かなら、この薬の使用期限、遥か昔に切れてるように見えるんだけど。
…………。
…明日、買いにいこっか。
どうする? 絆創膏でも貼っとく?
…え、いらないの? でも、そのままじゃ掻いちゃわない? 掻いたら痕残っちゃうかもよ。
…ほんとにそのままにしとくの? 大丈夫?
…いや、過保護ってわけじゃないけどさ。女の子なんだから、痕残るの嫌じゃない?
…そう、嫌じゃないんだ…。君ってそういうとこ…なんていうか…おおらか、だよね…。
…その言い方はなんだって? いや、これでもけっこう言葉選んだんだから、そんな顔しないでよ。
…んー…でも…。
…いや…首のとこ赤かったらさ、やっぱ変な誤解されない?
…俺が気にすることじゃない、って…。いや、気にするよ。
だって、知らないひとにキスマークだと思われたらどうすんのっ?
…どうもしない? いやいや、どうもしないわけにはいかないでしょ。気にしようよ。
…なんで俺がそんなこと気にするのか?
だって俺、彼氏だよ!
どこぞの虫風情が君の首を刺してさ、それがまわりのひとにキスマークって誤解されるの、彼氏として微妙じゃない?
自分がつけた痕ならいいよ。でも、そうじゃないんだよ。虫なんだよ!
虫が君の首を――ねぇ、聞いてる? 聞いてないよね?
…なに? 早くビールが飲みたい?
いや、その気持ちもわかるけどさ! 今、大事な話してるじゃん!
…どのへんが大事なのかって? 全体的にだよ!
…べつに拗ねてるわけじゃないけど…。
…………。
…ねぇ、俺にも痕つけさせてよ。
いいでしょ?
…え、駄目? なんで駄目なの?
虫はよくて俺は駄目なの? どういうこと?
(足音)
彼氏の俺がキスマークつけるの許されないのに、なんで虫は許されてるの? おかしくない?
いや、おかしいよ。おかしいでしょ! こんなの絶対おかしいよ!
お願いだよ、俺にも痕つけさせて! 首じゃなくてもいいから! お願いします!
俺も君に痕つけたいんだ!
…いいの? ほんとに? …ありがとう…!
わかってる、わかってる。見えるところには残さないよ。
えーと、どこにしよう。足の裏とか?
…なんでそんな変態を見るような顔するの? 俺、君の足、好きだよ。生まれ変わったら君の靴になりたいとさえ思うよ。
…それ、彼氏に向ける目? まぁ…嫌いじゃないけど。そういうの…。
ああ、ごめんごめん!
えっと、そうだな…。…肩、とか…駄目…?
…かまわない? そっか、よかった…。
じゃあ、その…ぬ、ぬ、脱がすね…!
あああ、気持ち悪がらないで! ごめん、今のは俺の言い方が悪かったよ。なんか興奮――じゃなかった。緊張しちゃって。
…うん、もちろん全部は脱がなくてもいいよ。肩だけ出してもらえたら。
(衣擦れの音)
…………。
…なんか、肩だけ見せるって…逆に、エロいね…。
あああ、ごめんなさい! もう変なこと言いません!
…えっと、じゃあ、改めて。
(深呼吸の声)
…痕、残すね…。
…俺、ひょっとして今すごく…童貞臭い?
…否定、してくれないんだね…。
おかしいな…彼女が出来たら童貞臭さって自然と抜けるもんだと思ってたんだけど…そうじゃないんだね…。…おかしいな…。
…あ、はい、すいません。もう無駄口叩きません。
…………。
(深呼吸の声)
(リップ音)
…なんかさ、恋人らしいことって、いつまで経っても慣れないんだよね。いつまで経っても…ドキドキしちゃう。
手ぇ繋ぐのも、キスするのも…その…エッチするのも…。
何度繰り返しても、そのたびに初めてみたいにドキドキする。
ドキドキして、失敗しないかどうか、そればっかりが気になる。
…慣れるまで頑張れって?
まぁ、それは…頑張るけどさ。
…痕、ついたよ…。
君と付き合う前の俺が今の俺を見たら、びっくりして心臓麻痺で天に召されるだろうなぁ。
自分が女の子にキスマーク残してるなんてさ。
…ん? 俺だけ痕つけるのはずるいって?
いや、ずるいって言われても…。ちょっと、な、なに、急に…。
ちょっ、待って待って、なにするの? そこ首ですけど? 俺、喉食い千切られちゃうの?
…っ…!
(リップ音)
…………。
…え、今…。…今…痕、つけた…?
…えええ…。いや、べつにいいけど…。
…いや、よくないよ。ここ、首だよね? 痕、見えちゃうよね?
…虫刺されだって言い訳しろって?
うぅん…いや、まぁ…実際、そう言い訳するしかないんだけど…。
でも…どうしたの? 急に…。
…そういう気分だった、って…。
…………。
…俺の顔が赤いとか、いちいち実況してくれなくてもいいよ。っていうか、本当に俺こういうの慣れてないんだからさ。手加減してよね。
…なに、そのしたり顔。
純情な男をからかって、楽しいんですかー。
…ああ、そうだ、夕飯の支度しなきゃ。すっかり忘れてた。
ほんとに、なんも食べたいもののリクエスト、ないんだね?
…はい? …俺が食べたい?
あのさぁ、そんなおっさん臭いこと、どこで覚えてくんの?
おっさん臭いでしょー、今のは。今時そんなこと言うやついる?
…決めた。今日の夕飯はお粥ね。
…ブーイングしない! そのおっさん臭い体を、内側からお粥で綺麗にしなさい!
決定は覆らない。今夜はお粥だ!
いっぱい作ってあげるから、お粥でお腹いっぱいに――。
(棚を開ける音)
…ねぇ、お米ないんだけど!
…なに? 買い忘れ?
いや、お米だよ? お米がなくなることなんかある? 俺んちじゃ考えらんないよ。
あーもう、今から買いにいかなきゃなんないじゃんー。
…いってらっしゃいって…俺ひとりで?
あっ、そういえば、いま首にキスマークつけられたばっかじゃん。なんか隠すもの…絆創膏、絆創膏…。
(物音)
ちょっと、絆創膏もないんだけど! この家どうなってんの!
…笑ってる場合じゃないよ。ここ君の家だからね。
ってことは、俺マジでこのまま買い物に行くの?
…はぁー…マジか…。
…なに? 夕飯のリクエスト? …からあげが食べたい?
…はぁー…。
…………。
あー、もう。わかった。わかりました。買い物に行ってきます。
(足音)
俺が出かけてるあいだに、ちゃんと風呂に入っといてね。ビール飲んで、そのまま寝ちゃ駄目だよ。
…お母さんみたいって言うな!
んじゃ、行ってくるよ。
お腹すいたからって、お菓子食べたりしても駄目だからね!
まったく、もう…。
(玄関の音)